スイーツメディアufu.(ウフ。)の人気連載「パティシエとして生きるには?」でも表紙を飾った、一流菓子職人 昆布智成シェフ。尾山台にある老舗「オーボンビュータン」でキャリアをスタートさせ、その後は「ピエール・エルメ サロン・ド・テ」、そしてフランスへ渡り、パリでは2つ星レストラン「ラトリエ ・ド・ジョエル・ロブション」で腕を磨き、日本へ帰国後は青山の名店「UN GRAIN(アン グラン)」の立ち上げから携わり、約9年もの間お菓子を作り続けてきた。
昆布智成シェフとufu.は、2022年にローソンとのコラボレーションスイーツ「プリンの限界」でも監修者として、一緒にコンビニエンスストアのお菓子界に革命を起こしてきた。そんな昆布シェフが、長年つとめたお店を退職し、地元へ帰るというニュースを聞き、今回はシェフの「UN GRAIN(アン グラン)」でのキャリアのスタートから終わりまでを、語っていただいた。
多くの人と出会い、刺激を受け、新しい時代を切り開こうとする昆布シェフ。シェフの今の心境や感謝の想いを編集長自ら、昆布シェフが出勤する朝から1日密着し話を伺ってきた。関係者の皆様含め、洋菓子ファンにぜひ読んでいただきたい“熱いシェフの想い”、どうぞご覧ください。
Q.フランスから帰国後、なぜヨックモックが運営するこの「UN GRAIN(アン グラン)」へ行かれたのでしょうか? 多くの有名店があり、また星付きレストランがある中での企業が運営するお店に惹かれた理由を教えてください。
昆布シェフ「フランスから帰国した後、有難いことにたくさんのお誘いがありました。ただ、日本で学べることを頭の中で考えた時に“自分がやったことがないこと”をやりたいなと思っていました。0から1を考えてみたかった。そんな中で“ヨックモックが新業態で新しいことをやる”という話が僕のところへきました。正直、どんなお店をどんな場所でやるのか、本当に“まっさら”な状態での面接スタートでした。
面接は数回に渡り、パティシエの面接とは思えない回数でした。そして最終面接までいき、最後の最後で叶わなくなりましたがその後『スーシェフ(2番手のポジション)でもよければ、どうか?』と連絡があり、このお店で働くことになりました。」
昆布シェフ「何もないところから、何かを作る。これ以上に刺激的なことはありません。実家にもう送ってしまったのですが、フランスに行っているときに美味しかったものをメモしたノートがあります。どこどこのバゲット美味しいとか。そのノートの中に、実はミニャルディーズが出てきます。僕がフランスの地方で働いている時に、ミニャルディーズを結構やっていました。僕のメモにミニャルディーズが面白いと書いてあったんです。実際に最終面接ではミニャルディーズより少し大きい『ポンポネット』というお菓子を提案していました。
その後は、約1年半。なかなか慣れない環境と状況に苦戦する日々でした。というのは僕たちは菓子職人なので、レシピを作ることや菓子を日々製造することはできるのですが、社員になってからも『UN GRAIN(アン グラン)』がどこにOPENして、どういうお菓子を出すのか、何も決まっていない中で、当時のシェフであった金井さん(アンフィニ)と一緒に4畳半ぐらいの狭い空間でひたすら試作をする日々は凄く長い時間に感じました。1年経っても物件が決まらない。今思えば不思議な時期でしたね。
そんな中で、商品開発において面白いエピソードがあります。僕はシェフではなかったので、金井さんのお菓子を作るのかと思いきや金井さんからは『昆布くんの作りたいお菓子も作りなよ』と言ってくださったんです。スーシェフなんだけれど、僕も商品開発に携わることができました。今の『UN GRAIN(アン グラン)』はたくさんの働く人たちが手を合わせて運営できています。昨年のクリスマスはパティシエそれぞれの考えたミニャルディーズが並びました。そんな今のアングランの体制ができたのも、この金井さんのスタイルがあったからかもしれません。」
昆布シェフ「その後はようやく場所も決まり、コンセプトやロゴのデザイン等も一緒に設計をしていきました。マネージャーとしてついてくださった石飛さん、そして立ち上げのメンバーみんなが一丸となって、一つのお店を組み立てていく過程はとっても刺激的でした。
そしてロゴのデザインは、有名なデザイナーが入り、その打ち合わせも自分がパティスリーにいたら経験できないような、大きな規模の仕事でしたし貴重な経験をしました。」
Q.その後、シェフとして上司となった金井さんとの日々はどんなものだったのでしょうか?
昆布シェフ「今までのシェフとは全く違うタイプのシェフでした。僕が指導を受けてきたのは巨匠と呼ばれるシェフたちばかりで、明確な上下関係がありましたし、常に学ぶ姿勢でした。金井さんの“楽しんで仕事をする”スタンスが、僕が知っているシェフ像とは全く異なるものでした。何よりコミュニケーションの取り方は上手で、特に外部の方、例えば生産者さんやライターさんであったりとか、そういった方々とのコミュニケーションの取り方が上手な方でした。
話し方、接し方、気の利かせ方、お客の顔が見えないパティスリーではなかなか学ぶことのできない、そんなコミュニケーションの大切さを学びましたね。金井さんは誰にでもフラットで、厨房でもよく会話をして明るい現場でした。」
Q.その後、2019年にシェフへ就任しました。昆布シェフの中で、シェフとしての考え方は変わられましたか?
昆布シェフ「このお店で、ある程度既に僕が考えたお菓子が並んでいたことや『UN GRAIN(アン グラン)』というお店がすでにしっかりとした輪郭を持っていたので、何かをガラッと変えようという考えはありませんでした。
日々、最高のお菓子を作り続けること。これが使命です。そんな中でもシェフというポジションになり、色々なことを考えました。まず、『UN GRAIN(アン グラン)』というお店をもっともっと多くの人に知っていただく必要がある。だからこそ、僕はコーヒーの世界の方々であったり、料理人やバーテンダー、ソムリエや陶芸家など、まったく異なるジャンルの世界の人たちと一緒にイベントをやったり、コラボレーションをしてきました。“昆布智成”から、『UN GRAIN(アン グラン)』を知ってもらえたら。一人でも多くの人が、このきっかけでお店に来てもらえたらと考えていました。
一方で、難しかったことは若い部下となるパティシエたちのマネジメント。10ある中でも5できたらすごく嬉しいので、良い意味であまり期待やプレッシャーをかけすぎないように。とはいえ出来るようになってくると、どんどん期待していっちゃいますが。
また僕はしっかり部下たちを叱ったら、必ずその日のうちにフォローするようにしていました。それは僕自身の修業時代の経験から来ています。昔は先輩に激しく怒られ、帰り道に『先輩の顔、明日みたくないなぁ』そんな重い足取りの日々だったので、そうならないように僕はフォローしていました。とはいえ、なかなかお店をみんなで回していくことの難しさは感じましたね。」
Q.昆布シェフにとって、この9年間は一言でいうとどんな時間でしたか?
昆布シェフ「最高の時間。それだけです。30代のほぼすべてをこのお店に捧げてきました。東京で、このお店でやり残したことはないと思っています。」
Q.マネージャーである石飛さんの存在が大きかったと取材を通じても感じます。何かメッセージはございますか?
昆布シェフ「『UN GRAIN(アン グラン)』では多くの人達と仕事をしてきました。その中でも、僕が一番感謝を伝えたいのはその石飛マネージャーです。僕たちのお母さんのような存在の人でした。もう本当に“恩”と“感謝”しかありません。
彼女は本当に『UN GRAIN(アン グラン)』というものに真剣に向き合っています。その想いの丈ははかれません。僕たちが悩んだとき、困ったとき、壁にぶつかったとき、どんな時も支えてくれたのは彼女でした。特にそのことを一番感じるのは、コロナ禍です。コロナ禍で、売り上げは激減しました。そのことから、お店の存続もみんなが不安視する中で会社のスタンスとしてはお店の取材も一切受けさせないし、やりたいイベントも“予算は一切ない”と何もできない状況でした。
石飛さんは『大丈夫、大丈夫だから』と言い続けてくれました。大丈夫だと言える根拠があったかはわかりませんが、石飛さんは僕たちの見えないところで、本当によくブランドや僕たちのことを守ってくれていました。その後、『UN GRAIN(アン グラン)』はコロナ禍を経て最高の売上を出しました。石飛さんの何の根拠もない『大丈夫』だったけれど、結局そこに救われましたね。
時にはお互い本気で意見を言い合うこともありましたが、このお店に、そして僕にとって、なくてはならない存在でした。今もこう話しながらも、ちょっと泣きそうになってしまっています(笑)。それぐらいこの9年間、色々なことがあって、思い巡って、感謝の気持ちであふれかえりそうです。最後に石飛さんへは、感謝の気持ちを伝えたいですね。石飛さんがいて本当に良かった。」
Q.これから『UN GRAIN(アン グラン)』に残る若いパティシエたちにメッセージはありますか?
昆布シェフ「いつまでもカッコいい『UN GRAIN(アン グラン)』でいてほしい。その一言に尽きます。『UN GRAIN(アン グラン)』らしさって言語化するのは難しいですが、みんなでカッコよく“また『UN GRAIN(アン グラン)』面白いことやっているな”と思わせて欲しいですね。」
昆布シェフ「これから福井へ帰り、実家を改装してお店を開きます。僕はあまのじゃく体質なので、人と同じことは絶対したくない。だから、新しいものを、昆布智成というお菓子を作りたいと思っています。ただ、向き合わなければいけないのは、福井という地元のお客さんを喜ばせられるのか。価格の価値観も東京とは全然違います。そんなワクワク感と、不安感とが今は入り混じったような感情ですね。」
【編集長の編集後記】
取材をしながら、一緒に働く若いパティシエたちに昆布さんはどんな上司か?
そう聞くと、全員が笑顔で「最高の上司」と話す。そして取材中もたくさんの人たちが昆布シェフを訪れる。こんなにも人に愛される菓子職人はなかなかない。よく「真心がこもったお菓子」という言葉を聞く。お菓子には、技術だけではない、科学的根拠もない、“人”という大事なものが美味しさに詰め込まれていると思う。大会に優勝しようと、完売するほど人気であろうと、日々菓子を作り続け想いを込めてきた人には決して敵わない。そんな昆布智成シェフの凄さ、愛される姿を間近で感じる取材であったし、私自身が多くの職人を取材してきた中でも最も心から惹かれる存在だった。昆布シェフ、本当にお疲れ様でした!最高のお菓子を、体験をありがとう!
Profile
昆布智成 Kombu Tomonari
1981年 福井県で230年の歴史を持つ和菓子店「昆布屋孫兵衛」の長男として生まれる
2004年 日本大学商学部卒業
2006年 東京製菓専門学校卒業
同年 東京に拠点を置きオーボン・ヴュータンにてフランス菓子の基礎を習得
その後 「ピエール・エルメ サロン・ド・テ」入社
2011年メープルスイーツコンテスト入賞の経歴を持つ
2012年 渡仏し、南仏のパティスリー「リエデレ」でMOF(国 家最優秀職章)に師事しガトー・グラッセや地方菓子を学ぶその後、パリでは2つ星レストラン「ラトリエ ・ド・ジョエル・ロブション」でデセールを担当
2015年 アン グラン スーシェフ パティシエとして入社
2019年4月よりシェフ パティシエに就任
クリーム太朗
ウフ。編集長
編集責任者。ショートケーキ研究家として、日本全国のケーキを食べ比べる。自身でも、ケーキやチョコレートの製造・販売を目指すべく、知識だけではなく実技も鍛錬中
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